新説・日本書紀⑪ 福永晋三と往く
https://gyazo.com/dc9715634b7f4b20204873dda3f2dcc5
2018年(平成30年)6月9日 土曜日
10代崇神天皇紀もまた、過激な巻だ。そこには、疫病と反乱についてしか記されていない。 同7年(180年)、天皇は八十万の神に尋ねると、大物主神が神明倭迹迹日百襲姫命に「我を祭れば国は治まるだろう」と告げた。ただ霊験はなく、同8年(181年)には天下に大物主神の子の大田田根子を捜すよう求め、茅渟県の陶邑(宗像市須恵)に捜し当てて大物主神を祭らせた。すると疫病は終息、国内が次第に静まり、五穀は実り、人民がにぎわった。再び祭った神前で詠まれた歌がある。 「この神酒は わが神酒ならず 倭成す 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久」。 歌中の「倭を造った大物主」は素戔嗚尊の子だ。書紀の一節には「大国主神、またの名は大物主神、または国造りの大己貴命と号す」とある。大物主が物部氏の真の祖先神とすれば、倭国の乱は、物部氏の祖先神を卑弥呼(=百襲姫)が祭ったことで終息したと考えられる。 同10年(183年)、武埴安彦と妻吾田媛が反逆の軍を興し、夫は山背、妻は大坂から都に侵入しようとする。天皇は家来を派遣し、吾田媛の軍を大坂で破り、吾田媛とその兵を討った。山背にも軍勢を向けて埴安彦を射殺し、半数以上の兵を斬首。同11年(184年)にようやく国内が安定したことが記されている。 「この期間は、中国の史書の一つ「梁書」にある「霊帝の光和(178~184)中、倭国乱れ、相攻伐すること歴年」の時期と符合する。古事記によると、崇神天皇は198年に没した。 崇神天皇紀には、大物主神と婚姻した百襲姫命の死を記した「箸墓伝説」がある。 大物主神の妻となった百襲姫命は、夜にだけ来る神に「朝に神の麗しい姿を見たい」と言った。神は翌朝、「姫の櫛箱に入って居よう。私の姿に驚いてはならない」と答えた。姫は翌朝、櫛箱にいた麗しい小さな蛇を見て驚き叫んだ。人の姿になった神は「お前は私に恥をかかせた。私はお前に恥をかかせてやる」と空に上り、三輪山(香春岳)に帰った。仰ぎ見て後悔した姫がドスンと座ると、箸で陰部を突いて死んだ。時の人はその墓を「箸墓」といった。 この墓は、昼は人が造り、夜は神が造った。大坂山の石を運んで造る。山から墓に至るまでに、人民が列を作って手から手へ渡して運ぶ。時の人が歌って言うには「大坂に継ぎ登れる石群を手ごしに越さば越しかてむかも(いや、手渡しで越すことは決してできない)」。 「石群」が行橋市とみやこ町にまたがる「御所ヶ谷神籠石」を指すとすれば、そこから西にある大坂山を越えた赤村付近に箸墓が造られたことになる。私はそれを赤村内田の巨大古墳型地形に見たのである。魏志倭人伝にいう卑弥呼の冢だ。 定説では、卑弥呼の共立は200年で、死去したのは248年ごろだ。伝説によれば、百襲姫と卑弥呼との死去した時期にずれが生じる。この伝説が日本書紀の崇神天皇紀に挿入されたのが原因と思われる。 次回は23日に掲載予定です
1971年当時の赤村内田の古墳型地形。周囲に池や溝が見られる